ONE for ALL
1999 ¥3,000(税込)/POCJ-1451
KAZUMI WATANABE : Electric & Acoustic Guitar
AKIKO YANO : Piano
MIKE MAINIERI : Vibraphone
LARRY CORYELL : Electric & Acoustic Guitar
JOHN PATITUCCI : Electric & Acoustic Bass
MINO CINELU : Percussions & Drums
収録曲
01 | 一口に『ラテン』と言っても、中南米ばかりじゃない。ラテン民族の故郷はフラン ス、スペイン、イタリアなどのヨーロツパ大陸。つまりコンチネンタル。などと、 歴史の教科書を紐解くようだが、KOKOの作風にはどちらかといえば、そんなヨーロ ッパ的ニュアンスのものが多く、このキューバ訛のテーマを持つ『ハバナ』すら、 本人曰く、ラテンバッハ!!!??? |
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02 | Waterways Flow Backward Again 思えば、初めてNYボトムラインのステージに立ったのはかれこれ20年前、かの Yellow Magic Orchestraのサポートギタリストとしてであった。ステージ左後方で 、シンセサウンドの合間をぬって『ウネウネギター』を弾きまくるアフロヘアーの ワタナベ。対して右サイドでは、おさげ髪のJapanese Girl、アキコ・ヤノが、ステ ップを踏みながらキーボードを叩く。KYLYNファンには懐かしいヤノの名曲が、水の 流れと共に時間を遡行する。 |
03 | LIBERTANGO タンゴ界の鬼才、故アストル・ピアソラの作品。ジャズマンにも彼の信奉者は多い 。10代の半ばに初めてピアソラの音楽を耳にした時は、そのリズムとハーモニーの テクスチャーは前衛的にすら感じたが、この「LIBERTANGO」の、ポップさと時代感 覚には眼からウロコだ。アコースティックギターのデュオ用に、入魂のアレンジを 施した。最近ではヨーヨー・マのTVCMで、その哀愁溢れるメロディーが日本の お茶の間に浸透した。 |
04 | SOMEWHERE マイク・マイニエリとの出会いは1978年。来日を狙ってデモテープ持参で楽屋に押 しかけ、アルバムのプロデュースを依頼した。翌年YMOのニューヨークライブの折に 再会し、僕のヒット作『TOCHIKA』が生まれた。97年にマイクを日本に呼んで行った 、僕のプライベートスタジオでバイブラフォンを組み立てて…から始まったリハー サル。そしてクラブやワイナリーや牧場でのインテイメイトなDUOは忘れられない。 SOMEWHEREは、その時のお気に入りのレパートリー |
05 | AFRO BLUE 今回のメンバーの中で、ベースのジョン・パティトゥーチだけが初共演だ。このア フロ・ブルーではモーダルなギターソロのあと、一転してパウンス系ブルース進行 となるのだが、ここでのジョンのソロはまるでウエス・モンゴメリーのギターを聴 いているようだ。6弦ベースの指板の上を超ワイドレンジで駆け回るそれは、ある 時はバッハのバイオリンパルティータの様ですらある。かといってバックに回って いる時の繊細かつ適格なサポートには、余分な音がひとつもない。恐るべしパティ トゥーチ。もうひとつ、グルーブの変化に合わせて、ミノがライドシンバルをキー ブしながらパーカッションからドラムへと、巧みにセットを入れ替わっているのに お気づきだろうか。 |
06 | 今回のセッションとアルバムのために書き下ろした作品。ステージで演奏しながら ふと感じた。ここでギターを「普通に」弾けることの、何と素晴らしいことか。こ れまでの時間と出会いに「ありがとう」、そして今この瞬間を生かされていること の「喜び」。そしてこれからの時間と可能性に「感謝」しながら、けっしてひとり ではない「旅」を続けていく…そんな思いを込めてみた |
07 | MILESTONES シンプルな構成ながら、さすがマイルス、プレイヤーの即興心をくすぐる作品であ る。今回のライブのアンコールとして演奏され、全員(矢野顕子をのぞく)のソロ がフィーチャーされた。ラリーのソロがだんだんと盛り上がってピークに達した時 、そこにあの「メンフィス・アンダーグラウンド」の名残りを感じて胸に熱いもの がよぎるのは、僕だけだろうか。ミノのロングソロは、あたかも千手観音がスティ ックを操っている様だ。 |
発売日:1999.6.16
番号:POCJ-1451
価格:¥3,000(税込)
録音:1999.3.31 The Bottom Line New York
【インナー原稿】by 渡辺香津美
人類にとっては重い歴史を背負った20世紀も、こと音楽文化に関しては百花繚乱で あった。そしてもはや21世紀。東に生まれ西の音で育った子供たちが、時代の足音 と共に、次に聴く音は一体何処からくるのだろうか・・・北?南?それとも地から ?空から?あるいは内なる宇宙から・・・
ところで、時間を遡ることは現実では不可能とされるが、人は夢の中ではそれを享楽する。かつて自分の存在しなかった空間であろうが、そこに帝王として君臨することすら可能である。
いったん放たれてしまったその後、心の中に残った《音》というのも案外《夢》と似たようなものかもしれない。生まれた次の瞬間には空間に霧散してしまう音達の記憶は、匂いや手触り、味覚のそれよりも実体のない曖昧模糊(あいまいもこ)としたモノでいながら、むしろ鮮やかに森羅万象(しんらばんしょう)を浮かべる。その波動は極めて直接的に、大脳をバイパスして感情中枢にアクセスしてくる。そして太古の昔からヒトが備えていたはずの感覚を呼び覚ます。それこそ、しなやかな野性。誰かや何かの 為でなく、目的や結果があるのでもない。ただ《音》が素粒子としてそこに有る。 それは何も束縛せず、時間の概念すら超越する。そこにひとつひとつ意味を見い出 すのは、僕らだけに許された密かな愉しみといえる。さあそろそろ心の耳を傾けよ う。過ぎ去った時間は、この一瞬の為に。そして、この一瞬はこれからの時間の為に。